はとむね読書

胸を張って読書を頑張る記録

(一部未読)京アニを読む

京アニを読む (新典社新書 69)

京アニを読む (新典社新書 69)

 

「読む」のタイトル通り、京アニの有名作をまるで文学小説のように捉え考察されている。筆者は日本近代文学の教授であり、40代半ばごろ、「けいおん」聖地巡礼の痛車群を滋賀県の自宅付近からみた衝撃から京アニという存在に出会い、海外への日本文化の認知が森鴎外よりもアニメ・マンガであるという驚きからアニメを一種の物語文化としてとらえ考察することが始まったそうな。もともとアニメが好きな人が語る目線でないため、余計なバイアスも少なく、新たな視点からの物語の味わいを教えてもらえる。長門への萌えはピグマリオンコンプレックスとの親和性だといえるオタクになりたい(笑)。

概要(はじめに抜粋・一部要約)

近代文学の終焉ということが言われはじめて、かれこれ10年近く経つのではないだろうか。僕は今、51歳だが、振り返ってみると、今から30年前、多感な青春時代にあって、人はいかに生きるべきか、とか、正しい人生の姿はどのようなものか、とか、そんなことをそれなりに考えていたような気がする。

中略

今思うと、とても恥ずかしいが、「思想や文学にかぶれる」というのは、おおざっぱに言えば、思春期、青年期にあってこんな体験を持つことを意味するのではないかと思う。

今でも若い人たちはやはり文字通りの意味での青春の読書を営々と営んでいる。ただ、そう見えないのは、一般的な意味での「教養」の圏外にあるメディア(つまりマンガやアニメ)を媒介にして物語を受容したり、活字メディアであっても「教養」の範囲から逸脱した物語ジャンル(ラノベやBL)を通じて、人生観や世界観を学んでいるからである。たしかにもし僕が今、大学のキャンパスでドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や埴谷雄高の『死霊』を熱心に読んでいる若者に出会ったとしたら、いろいろな意味で驚くと思う。

さて、本書の目的は、現在、中高生を中心に若者の間で圧倒的な支持を集めるアニメ制作会社、京都アニメーション(通称、京アニ)の作品群を分析の対象とし、思春期の中にある現在の少年少女の内面を、考えていくところにある。

中略

本書ではこれらの京アニ作品の内、思春期の中にある少年少女の心の揺れを丁寧に描いている六作品を考えていく。それを通じて、今時の少年少女が、登場人物に等身大の自分を見たり、成長のロールモデルを発見していく物語受容の姿を照射していくとともに、その向こう側に透けて見える彼ら彼女らの心象風景を明らかにしていくつもりである。

 Ⅰ 思春期のゆくえ『涼宮ハルヒの憂鬱』

なぜ涼宮ハルヒは憂鬱なのか。私たちが大人になるとは、今まで信じていた世界観なり、人生観、自己意識を解体し、現実に即した新しい考え方なり関係性を再構築していくことを意味する。これをハルヒの内面に即して言うならば、今まで特別なものに感じていた場所や人生も、誰もが共有しうる平凡でありふれたものに過ぎなかったことを新たな人生観、世界観として受け入れることを意味することになる。
中略

自分の世界や人生は、自分にとってはかけがえのないものだが、客観的に見れば、他人の住む世界や他人が生きる人生とは大差がない。すべての他人の人生を超越してあるような「特別」な価値など存在しない。

ハルヒはその事実に気づきながらも、自分の人生があるいは自分の住む世界が「特別」なものでないことを認めることができない。ここに平凡な実人生と彼女の求めるものとのギャップが生まれ、憂鬱が形成されることになる。

考察深っ!なぜハルヒが憂鬱なのか考えたことがなかった。でも確かにハルヒの憂鬱のように、他人の世界と比べて自分の世界が何か特別なものであって欲しいと思うことはあった。なんかちょっと違う気がするが、特別な自分は霊丸がぼちぼち打てるのでは?とよく試していたわ笑。他人も自分も同じ平凡な世界に生きていることを享受できるようになったのはいつからかな。それともまだ享受できていないかも。あいつよりは自分は幸せに生きていると、無意識に見栄を張ってしまっている。

綾波レイや長門有希が体現する空虚さ、存在の無根拠性が「萌え」に直結している点については、おそらく他我と出会うことを忌避するような思春期の心性と表裏の関係にある。涼宮ハルヒのような葛藤を抱える少女は、綾波レイや長門有希と比べて、「萌え」の対象にはなりにくいのではないか。ハルヒの内面は激しい振幅としてあり、もし彼女に近づけば、周囲の者もその葛藤に巻き込まれ、ときには傷つくこともありえる。そうなっては「萌え」どころの騒ぎではなくなる。生身の他者と出会い、自我と他我との対立や衝突が想起される世界がそこには予想されるからだ。そう考えてみると、斎藤環がいうように、綾波レイや長門有希に「萌え」を感じるという心性には、本来は生身の肉体を対象とするはずの欲望が、空虚さや存在の無根拠性によって喚起されるという逆説が内包されているように思われる。とするならば、あるいはここに、いわゆるピグマリオンコンプレックス(狭義には人形偏愛性)との親和性を指摘することも可能かもしれない。 

よくわからん笑。自分も長門派だったけど、なぜ長門に萌えを感じるのか、、ピグマリオンコンプレックスは、本能的に他者を好きになりたいけど傷つけるのが怖いから人形みたいな人を好きになるという的な感じで、なんとなく把握できたけど、「本来は生身の肉体を対象とするはずの欲望が、空虚さや存在の無根拠性によって喚起されるという逆説が内包されているように思われる。」がわからん。なぜ肉欲的なものが、空虚さや存在の無根拠性に喚起されるんだろう。空虚だから、逆に侘しくなって欲しくなる的な感じなんだろうか。

個人的に長門の萌えは、感情を知らないロボットに感情を教える父性的なもんをくすぐられるところかと思っていたけど、、また考察が違って、しかも深くて面白いなぁ。

あらためて『涼宮ハルヒの憂鬱』について考えてみると、結局のところこの物語は、誰もが一度は通り抜ける思春期の葛藤の中で、幼少期からの願望や憧憬とどのように折り合いをつけ、成熟を受け入れるのか、その道筋を示そうとしている物語であるといえよう。エキセントリックで荒唐無稽なストーリーや設定は、高いエンターテインメント性を実現しているが、それを指摘するだけでは、この物語の可能性なり魅力なりを十分にくみ取ったことにはならない。

 ああ、胸が痛い。やっぱり子供からオタク気質な自分は、わかりやすい「エキセントリックで荒唐無稽なストーリーや設定」に先に飛びついてしまって、その物語にある奥深さにあまり潜れていないと思う。もったいないのだ。プロのクリエイターがどんな思いで作品を作っているのかをくみ取って、それをわかりやすく説明できるようなオタクになれれば、クールジャパンと胸を張れるのに。1ファンとしてもっと真剣に作品に向き合えれるようにならないとな。

Ⅱ 「居場所」と「承認」の物語『CLANAD-クラナド-』『けいおん!』『Free!』

ところで「居場所」の問題については、鳥山敏子によって詳しい説明がなされている。鳥山によれば、子どもが家庭に自分の「居場所」を感じられなくなった原因は、親たちが、「自分の子ども時代と比べて、ぜいたくなものを手にしているわが子が幸福になっているものだと勘違い」しているところにある。
中略
子どもから見れば、「何が子どもにとって真の幸福なのか本気で考えてくれる親」が家庭から消えてしまったのが現代という社会なのである。「居場所」の物語が若者たちにとって、彼らを精神的に救済しうるものであることの背景には、このような子どもを取り巻く現代の社会状況がある。 

昔がどうなのかわからないけど、確かに親が「子供のことを振り返らないで働くのが当たり前」というのはあるかもしれない。思春期に両親と共にいれる時間は、近代になればなるほど、減っていってるんだろう。父が働いて遅く帰ってくることに寂しいとも思わなかったし、それが普通だと思っていた。でもそこに焦点を当てているこの作品は、どうしても羨望のまなざしで見てしまうのだろうな。「渚家いいなぁ」と知らぬ間につぶやいていた覚えがある。

 

土井隆義は他人に積極的に関わることで自分も相手も傷ついてしまう関係を回避するような若者の傾向を指して「優しい関係」と呼んでいる。このような土井の指摘は『けいおん!』全体を支配する幸福感の中身を理解していく上での手掛かりとなる。唯たちバンドメンバーは、別に摩擦を回避しているわけではない。なぜなら摩擦など起こりようもないほどに、彼女らの同調率は、高いからである。それゆえに彼女らは「優しい関係」を構築するための一切の努力を払わないままに、穏やかな時間を手に入れることができるのだ。この物語を思春期にある多くの少年少女が支持したのも、彼ら彼女らが求めるモノ(対立や葛藤、決別などが回避された場所にあるような友情)をもっとも理想的な形で(「優しい関係」への努力を欠いたままで)手に入れることに成功しているからである。

頭を空っぽにして見れる日常系のアニメの先駆者がけいおん!だった気がするけど、確かに理想的な形で、居場所・友情を獲得しているこの作品だからこそ、頭を空っぽにできたし、いいなぁと思っていたんだろう。アニメは、ドラマとかよりもさらにフィクションで・理想形を描きやすい。だからオタクはそれだけ理想を追い求めて、現実からより目を向けにくくなるのやもしれん。まだまだ思春期真っただ中や(笑)。

物語のラストでは唯は、視聴者である思春期の少年少女たちに、だれでも、お互いに思いやり、決して傷つくことも裏切られることもなく、安心して自分がみをゆだねることができるような「居場所」を見つけることができるのだと、だから安心していいんだと、語りかけている。このような唯のメッセージを受け止めて人生に希望を感じる若者とは、『CLANNAD-クラナド-』の主人公のように、実人生から疎外され、孤独感の中で生きることを余儀なくされた、それでいてさとっているふりをしているような、そんな思春期の中にある少年少女たちなのではないか。僕はそのように思う。

うーん、リアルタイムで見ていた自分として、それは図星なのかもしれない。堂々とこの筆者の考察通り受け止めていたわけじゃないけど、あの時思った「いいなぁ」という感触は、言語化されるとこういうことなのかな。自分はゆとり・さとり世代で。適当に生きればいいやという思春期。いやなことがあればなるべく逃げ出したいなと思った思春期。理想の世界を見せられた思春期。
大人になって、資本主義の通り自分の理想・欲にもっと正直になっていきいきと働いている先輩たちをみたら、また見えてくる世界が変わってきたと思うけど、自分の思春期の原体験ではそんなことを考えてたなとちょっと思い出せた。

Ⅲ 中二病という名の孤独『中二病でも恋がしたい!』

 未読

 

Ⅳ いまどきの教養小説(ビルディング・ロマンス)『響け!ユーフォニアム』

未読